過去の日記へ
 3月28日(月)
 
 ついにヤツが帰ってきた!おかえり〜!ひゅ〜、どんどんどん!
 なんの騒ぎかと言うと、昨年春に国外逃亡を果たした小林悠人が、帰国したのだ。思い返せばあれからもうすぐ一年。時がたつのは早いものだ。さっそく帰国翌日の26日に歓迎の席をもうけた。店は、前と同じ気分で会いたかったから、いつもの大八だ。
 ユージンは、少し遅れて現れた。主賓が来たとき上手に乾杯できるように少々練習していたせいか、一瞬デジャヴを見ているような錯覚に襲われた。微妙にはにかみながらも鋭い毒舌を吐きまくるあたりは相変わらずで、本当に懐かしかった。彼を知る仲間たちも入れ替わり立ち替わり大八を訪れ、楽しくて飲みすぎてしまった。
 友達に再会できるのはすご〜くすご〜くうれしいものだと、あらためて感じた。ユージンは第3回公演の「恋愛メニュー」に出てくれたが、今でもあのときのことはよくおぼえている。ユージン演じる健気でかわいい光ちゃんに、稽古場中みんな泣かされた(だがしかし、かわいかったのはユージンではなく光ちゃんである)。そして、今回は帰国前から出演交渉に及び、チラシにはすでに名前が載っているという強行軍である。強行だろうがなんだろうが、また一緒に芝居ができるのがうれしい。
 さて、これでいよいよ役者が全員そろった。あとは本番に最大の力が出せるように組み立てていくのだ。あー、テンション上がってきた!
◆◆◆
 今日は、大勢の前で話をする仕事があった。
 芝居ならいざ知らず、素の私は誰もがご存知のように人見知りで口下手なので、今日の日を前にけっこう緊張していた。準備が押せ押せだったので気持ち的にも慌しく、しかし準備すればするほどもっとしたくなって、昨夜はほとんど眠れなかった。
 そして、本番を迎え、やっぱり緊張しながらどうにか無事に終えることができた。お客様には好評だったけど、自分的には65点ぐらいだったな、ちくしょう。言いたかったことは、ちゃんと伝わったのだろうか?緊張のあまり、冒頭走りすぎ、聞く側との関係ができる間もなく、自分ペースで場を進めてしまった気がする。今回は仕事だからともかく、芝居だったらこんな芝居してたら誰も観てくれないな。
 まあしかし、何事も経験だ。今回こういう機会をいただけたのもありがたいことだったし、次に同じような仕事が来たら、きっともっとうまくできるはず。その日まで、今日の反省を生かして精進することにしよう。それにしても、ありのままの素の自分の言葉で話をすることはなかなか難しい。だがしかし、それでもやっぱり自分の思いが乗ってくると、言葉がするすると出て話していて気持ちがいい。
 本気の思いに後押しされていない言葉は、言葉だけが孤立してしまうのだ。いつでも、自分の言葉を孤立させないようにしたいものだ。
◆◆◆
 先週は、いい芝居を2本観た。

 ひとつは、金曜日に観た劇団さむらい花火の「キカイだ!?」。この劇団はサバイバーパンクスのワークショップにお邪魔したときにたまたまご一緒して、楽しく稽古させてもらったのだが、若々しくてとても元気な学生たちの劇団だった。ストーリーそのものは起承転結のしっかりした正統派な展開で、多少ありがちな感じもしたけれども、私がいいなと思ったのは、一人一人の役がちゃんと、キャラクターとして舞台に存在していたことだ。それって当たり前のことなんだけど、一番難しいことじゃないかと思う。けっこう大きなところの芝居でも、キャラクターの存在感が薄いために今ひとつパッとしない芝居ってあるものだ。そこらへんは単に役者のうまい下手じゃないと思う。その役が何がしたいのか分からない、背景に見える役の人生がうすっぺらい、役より役者自身の方が色濃くにじみ出ている、そもそも声が聞こえない、そういう芝居はキャラクターが立たないので存在感はない。では、役の存在感を引き上げるにはどうしたらいいのだろう?
 そんなものに答えがあったら私が聞きたいぐらいだが、この芝居を観ていていくつかは気がついた。この芝居では、一人一人が役の生き方を明確にしていて、それを迷いなく信じているように見えた。良い者も悪者もみんな。そして、全員がその作品を好きで、楽しんでやっているのが見てとれた。それは客出しのときの笑顔がとてもいい顔してたことからもよく分かった。ていねいな役作りはもちろんだが、役の存在感というのはさらにその計算を超えた上のほうにあるんだと思った。

 ふたつめは、土曜日に観たinnocent sphereの「HELL FIGHTER」。この劇団の芝居は、観るたびに作品の世界観の大きさに圧倒されるのだけれども、今回も十分に期待通りですばらしかった。そして、舞台、音響、照明、衣装、メイク、もろもろのスタッフワークは相変わらず最高。
 今の世界が滅びたあとに、人類がまたいくつかの国を成して新しい世界を創っていく、そんな過程が描かれた作品だったのだが、ふとこれは現実の世界のことではなくて、個人の心の中の世界かもしれないと思ったとたんぞっとした。私の中にも、たくさんの国があって、それらは混じり合わないように壁を立てていたり、競合したり、戦ったりしているからだ。いろいろな思いが同時に存在し、それを煽り立てるものが存在し、逆に諌める者もまた存在する、そんな混沌とした世界だ。
 最後に鳴り響いた鐘は、大きな赦しの鐘なのだと、私は勝手に解釈した。そのとたん涙があふれた。
 やっぱり芝居はすばらしい。
 
 3月19日(土)
 
 昨日は、花丸さん主宰の「永福町で朝まで飲む会」に参加した。おもしろい面々がそろいそうだったので、楽しみにしていた。花丸さんをはじめ、はなまる大作戦の新しい役者さんや客演の方々、昔私がぶった斬りしてしまった音響のあきらさん、そしてココロ×ココロの主宰のそうしさん、それにいこまさんにも久しぶりに会うことができた。そうしさんとは、実は3年ぐらい前からの顔見知りだったのだけれど、一緒に飲むのは初めて。私は終電ぎりぎりで帰ったけど、みんなで芝居の話をたくさんして楽しかった。
 いつか、寄せ鍋みたいなメンバーで、プロデュース公演なんかできたらおもしろそうだな。そうしさんは学園ドラマがやりたいと言っていた。そしたら私は隣の学校のスケ番役(今どきいないけど)をやろう。 
◆◆◆
 最近、稽古をしていてあらためて思うことがある。
 それは、人間というものはいつも同時にいろいろなことをしているということだ。顔で笑って心で泣いて、ぐらいのことは序の口で、本当は顔で笑って心で泣いて、なおかつ空腹をおぼえて夕飯に何を食べるか考えたり、そういえば今日は家賃振込みの日だったなとか、外の道路工事の音がうるさいなとかいろんなことを気にしながら、とりあえず目の前の仕事をこなしていたりするものだ。
 今回の芝居は、多くの人が右往左往する。キャストの人数的には前回の方が多かったのだが、裁判という大きな段取りの中で動いていたのでさほど気にならなかった。しかし、日常が舞台となると、人はそれぞれの思惑のままに同時にたくさんのことをしながら、なおかつ場の空気や話題を成立させているという、ナチュラルにしてものすごいことをやっているのだ。
 ところが、脚本というのはふつう、台詞とト書きの羅列で構成されているので、たった一つの事象しか規定することができない。本来なら、私たちはずいぶん前の話題に急に戻ったり、人がしゃべっているのに話し出す人がいたりして、一つの事象だけがそこに存在するということはありえないのだ。現実は、順番なんてめちゃくちゃなのだ。
 芝居をしたときに、そのへんのことが妙に整理されすぎていると、うそくささがつきまとう。もちろん芝居は日常の再現ではないので、見せたいところを引き立てていかなければ芝居にはならない。しかし、そのとき同時に存在する感情や行動をどれだけ多く想像できるかによって、役としての存在感は絶対に違ってくると思うのだ。
 稽古は、今日から立ち稽古に入った。今までは、どんなにむずむずしても、作品のテーマや役の気持ちを話し合いながら読み合わせを繰り返してきた。これからは体が使える。ごちゃごちゃとしているからこそ生まれる人間らしさ、きれいにまとまらないがゆえの魅力みたいなものを、たっぷり舞台に乗せていきたいと思う。
◆◆◆
 さて、今日いよいよチラシも届き、明日からチケット発売となりました!
 たくさんの人に楽しんでもらえるよう、今回も本気で芝居を創りたいと思っています。みなさんのご来場をお待ちしてます!
 
 3月15日(火)
 
 赤いキャスターバッグを愛用している。
 稽古に、合宿に、劇場に、荷物をいっぱい詰めてあちこち連れ歩いていた。しかし、雪道を引いて歩いたり、過積載を繰り返したりして酷使しすぎたため、ついに引き手の部分がばかになってしまった。もともと安かったから十分にもとは取ったし、これからまた公演が近づくにつれ、衣装だの小道具だのチラシだのと重たい物を運ぶ機会が増えるので、この際四輪駆動の軽いキャスターバッグに買い替えることにした。
 しかし、あちこち回って探したものの、なかなか気に入るものが見つからない。いや、きれいな青のトランクや、ストライプのおしゃれなのや、すてきなバッグはたくさんあったのに、どうも踏ん切りがつかないのだ。
 結局、安物の赤いキャスターバッグがとても気に入っていたので、どれを見てもイメージと違うのだった。なにしろ、あのバッグには思い出がいっぱい詰まっている。衣装合わせとなれば洋服をこれでもかと詰め、あるときは大道具のテーブル代わりとなり、「ええじゃないか」のときには着物をいっぱい詰めて運び、反省会のときはビデオでいっぱいにして、とても重宝していたのだ。
 悩んだ末に、結局前のとそっくりな真っ赤なバッグを買った。それでも、家に連れて帰ったときは、前のをぎゅーっとして世代交代の儀式をした。子どもの頃はよくそんなことをしていたが、おとなになってからは思い出せないぐらい久しぶりだった。
 
 
 3月7日(月)
 
 昨日は、たまたま殺陣教室もなく、予定のない休日だった。こんな日はいつ以来だろう。そんな珍しい休日に何をしていたかと言うと、ただひたすらに寝てしまった。朝目覚めたらすでに11時、ごはんを食べたらまた眠くなって次に目覚めたら夜7時過ぎ、こんなに眠れる自分がおそろしい。でもたまになら、こんな埋もれる一日も幸せ。
◆◆◆
 ここ数日の間に、まだ決まっていなかったキャストやスタッフがすべて決定し、いよいよ公演に向けてスタンバイOKだ。
 公演にあたって、私は何らかのチャレンジを自分に課すことにしている。チャレンジと言えば聞こえはいいが、要するに「ええ!?それは無理でしょう、普通!」とか「うまくいかない可能性大だよ、それ!」とか「物理的に不可能でしょ、いくらなんでも!」というような善良な天使達の声を無視して、ゴリ押ししようという挑戦である。またの名を無謀とも言う。
 とりあえず今まで成し遂げてきたことを振り返ると、より無謀なチャレンジを試みたときのほうが、結果的にうまくいっていたりする。ほどほどにうまくいきそうなお膳立てなんかしてしまうと、どこかで要らぬ余裕が出てきておもしろくない。特に私は集中力にムラがあるので、多少の不安を抱いてよそ見できないぐらいでちょうどいいみたい。
 今回のチャレンジはまず、初めての再演であること。キャスティングした役者の一人が現時点で外国にいること・・・等々と続くが、千秋楽を迎える頃にはきっと何とかなっているに違いない。しかも今回は、旗揚げ公演に出演してくれた役者さんがカムバック出演という、気球的にとてもうれしい巡り合わせもあり、どんな舞台になっていくのか楽しみである。考えてみれば今回は、旗揚げメンバーの晶子さんを筆頭に、12人のキャスト中、実に10人もがリピーターキャストなのだ。そして、音響は、気球には欠かせないとまっち。どうしても仕事の繁忙期と重なって忙しいと言っているのに、どうにかこうにか丸めこんで承諾を得た。また、今回は初めてダンスの振付を人に任せることに。再演だけに、私自身はどうしても前のイメージにとらわれがちなので、新しいダンスを入れてもらうのが楽しみだ。芝居にダンスが入るのは相変わらず賛否が分かれるところだが、かまわん。私にしてみれば、「ダンスがよかった!」と言われるのも、「どうしてあそこでダンスが!?」と言われるのも同じなのだ。それだけ、意味なんか二の次で、目と気持ちを奪うのだ。ふふふ。
 さて、また明日から、一回一回の稽古を大切にしていきたいと思う。
 
 
 3月3日(木)
 
 あっという間に3月に突入だ。

 一昨日は3月1日。私はこの日を待っていたので、ここしばらくずっと念頭にあった。女子高生コンクリート殺人の犯人だった元少年、神作譲の再犯事件の判決が下される日だったから。
 10月25日に東京地裁を訪れたとき、たまたま神作譲の第3回公判を傍聴することができたのは、偶然としか言いようがない。ちょうど過去の殺人事件や判例について調べていた時期だった。調べた中でも、16年前のあの事件はことのほか悲惨だったのでよくおぼえていた。でも、法廷で神作を目の当たりにした衝撃は、自分でも想像に勝るものだった。当時の裁判記録などを精読し、衝撃のあまり体が震えた。悲惨なんてものではない。憎悪の涙なんて流したのは、初めてだったと思う。その思いは、あれから4ヶ月あまりたった今でも薄らぐことがない。むしろ、じわじわと意識下に潜行しているように思える。事件のあった地名を目にするだけで動悸がし、なんでもないときに突然あの事件のことが頭をよぎるのだ。寒いとき、お腹がすいたとき、ふとあの事件の被害者のことが頭に浮かぶのだ。なんの関係もない私がそうなのだから、被害者の遺族や友だちは、どんな思いをしたことだろう。そう考えると、ますます二重三重に心が塞がれる。
 他にもひどい事件はたくさんあるのに、自分でも、どうしてあの事件にこんなに心がとらわれるのか分からない。しかし、あの事件は、人の心の恐ろしい部分を、如実に表しているような気がするのだ。人間の心はあんなにも簡単に麻痺し、残酷になれるのだ。残酷なことを快くできる瞬間があるのだ。大勢が関わっていたのに、誰も正気を取り戻さなかった。彼らは本当に特別なのか?明らかに狂気の沙汰ならば、私はこの事件を忘れるかもしれないけれど。

 今回の判決は、懲役4年だった。求刑7年に対して、ずいぶんと割引されたものだ。でも、今の日本の裁判では、やはりこのぐらいの判決が妥当な線なんだろう。今回の罪状は逮捕監禁致傷、最高でも懲役10年にしかならない罪だ。16年前の事件についてはすでに服役しているから、そのことによって量刑が加算されることは法律上はありえない。しかし、刑期をつとめ上げたからと言ってあの事件を忘れることなんてできないし、ましてや許すことなんて到底できない。今度こそあいつが更生するだろうなんて、たぶん誰も信じてはいない。それなのに、ほんの数年後にはまた、「罪を償った」ことになって社会に出てくるのだ。
 犯罪にまつわる事情はケースバイケースである。いったい何をもって、人は罪を償ったことになるのか。あるいは社会は、犯罪者にどんな償いを求めることができるのか。法律や過去の判例に照らすだけでは、決して人を裁ききれないのだとあらためて思った。
◆◆◆
 今日は、下北沢の屋根裏へ出かけた。昔、共演した役者さんが最近ではもっぱらバンドで活躍しているらしい。
 ライブハウスに行くのは、10年ぶりぐらいだった。いや、もっとたつかも。私がライブハウスに出入りしていた高校時代は猫も杓子もバンドを始める時代で、ロック全盛だった。久しぶりに行ったライブハウスは昔のような熱狂的な盛り上がりではないけれども、大音量がおなかに響き、不思議に居心地のいい空間だった。いろいろと、昔のことを思い出した。胸をときめかせて聴きにいったライブ。ドラムの練習をしに通ったタバコくさいスタジオ。
 今日初めて聞いたそのバンドは、意味なんてどうでもいいぐらいテンションが高くて、迫力があった。さすがに、見せ方を心得ているなあ、と思った。楽しかったし、また時々そんな空間に身を置いてみたい。